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名古屋巡礼記:86

式年遷宮/4

西行が伊勢二見浦に庵を結んだのは63歳の時であった。
鬱蒼とした社の木々、簡素な宮居、玉砂利を敷き詰めた清浄な神域は
悠久の時を経ても変わることがない。
ここでは神々への奉仕が綿々と続けられ、
更には遷宮によって神々は若返り、朽ちるということを知らない世界だった。
西行の生きた世界は末法の世界と呼ばれていた。
巷では源平の戦乱に明け暮れ、人の命は一枚の紙のように軽かった。
そうした時代にあって、伊勢の神域だけは変わることがなかった。

何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

この句は西行の歌集には載っていないので、
西行の歌かどうかはにわかに断定できないそうだが、
西行がこれに近い感動を覚えたことは確かだろう。
しかし、西行は真言宗の僧だったので神域に入ることは叶わなかった。

榊葉に 心をかけん 木綿垂(ゆうし)でて 思えば神も 仏なりけり

この句は西行が伊勢で詠んだ歌だが、
神域の外からでも静寂に包まれた厳かな宗教的空間は心に沁みたに違いない。
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[伊勢参宮 宮川渡しの図]

西行が亡くなってから500年後、
西行を敬愛して止まなかった芭蕉が伊勢にやって来た。
『奥の細道』の旅の直後のことで、たまたま遷宮の年にあたっていた。
この時の伊勢神宮は例年の数倍もの人々が押し掛けて、
混雑していたことは芭蕉の

尊さに 皆おしあいぬ 御遷宮

という句からも伺うことができる。
芭蕉は伊勢山田で御師邸に滞在し、旧暦の9月13日に内宮を、
14日には外宮を参拝したという。
ちなみに御師とは、宿坊の経営や参詣人の案内を兼ねた神職や社僧のこと。
同道した曽良の旅日記によると、内宮では暮前より神前に詰めて拝観したとあるから、
間近に見ることができたのだろう。
しかし、西行がそうであったように僧形である芭蕉が神前まで進むことは
本来ならできなかったはずだ。
芭蕉の泊めた御師が俳諧に造詣が深い人であったから、
何かと便宜を計ってくれたのかもしれない。
この後、芭蕉は二見浦に行き、西行庵を訪ねている。
『西行上人談妙』によると、庵は浜萩を敷きたる様にて哀れなる住まいで、
端が凹んだ自然石を硯として使っていたと記されている。
西行のこうした侘び住まいこそが芭蕉が望んでいたもので

硯かと 拾ふやくぼき 石の露

という句で西行を偲んでいる。
日本を代表する歌人と俳人が晩年になって伊勢にやって来たのは、
偶然とは言い切れない何かがあったはずだ。
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その当時、伊勢の両神宮の近くでは付髷を売っていて、
剃髪の者がこれを付けると境内の中に入ることができたという。
剃髪は僧や尼僧に限らない。医者や芭蕉のような俳諧の師匠も剃髪した者が多かった。
このように江戸時代の伊勢は俗化が激しくなっていた。
平年でも年に50〜70万人の参拝者があったというから無理もない。
更におかげ参りともなると、どこから湧いてきたのかと思うほどの人が押し寄せた。
伊勢へ向かう街道はどこでも笠と笠がぶつかって歩けなくなるほどだったという。
1日に23万人が通過したという信じられない記録も残されている。
どっと押し寄せる勢いを止められず、箱根の関所も扉を開け放しにしてしまったとか、
洗濯をしていたら参宮の一団が通りかかったので、
それに加わって伊勢まで来たとか、様々な事例が書き留められている。
心安らかな参拝というよりも、お祭りに近かったようである。
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その頃の伊勢神宮の内宮・外宮の正宮の周辺には
粗末な小屋が建ち並んで近郷の土着神を祀って参拝させていたという。
更には内宮の境内の中にも民家が建っていたというから驚く。
宿舎だった御師の邸宅では山海の珍味を食べさせ、
古市の遊廓では華やかに伊勢音頭が踊られていたという。
まさに伊勢は何でもありの不思議なトコロだった。

明治になって両宮の境内の中は整理された。
民家は移転し、正宮の周辺にあった末社は撤去された。
今ある伊勢神宮は芭蕉が行った時より、西行が住んでいた頃に近くなっている。
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[西行]
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[芭蕉]

以上で、式年遷宮は終わります。
by tomhana0904 | 2006-11-01 07:05


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